見極めの天才 本阿弥光悦
一言まとめ
良いものに触れ続けることで、 人が何を良いと思うかを理解したデザイナー。
天才の略歴
1598年40歳:俵谷宗達と出会う
1602年44歳:島神社の寺宝「平家納経」の修理にあたる
1610年代50代:俵屋宗達と合作『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』を製作
1615年57歳:家康より京都鷹峯9万坪を与えられ光悦村をつくる
1637年79歳:死去
代表作品経歴
国宝:楽焼白片身変茶碗 銘「不二山」
国宝:舟橋蒔絵硯箱
天才の幼少期
刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする本阿弥家に生まれる。 家業での記録はほとんど記録が残っていないが、 当時男の命でもあった刀剣は、一昔前の車のようなステータスシンボルであり、 木工、金工、漆工、革細工、蒔絵、染織、螺鈿(らでん)など様々な工芸技術が施された芸術作品でもある 刀剣に幼少期から関わっていたことで、審美眼が養われてきたのだろう。
天才なところ
書家・工芸家・陶芸家・画家・作庭師・出版者 その実態の記録はあまり残っていない。ただ、ダ・ヴィンチと言われるゆえんは、 そのクオリティの高いクリエイティブ活動にあったのだと思われる。 幼少期から養われてきた審美眼は、 後に国宝風神雷神図屏風で知られる俵屋宗達を見出し 自身も「寛永の三筆」の一人に数えられる書家として、 また陶芸、漆芸、出版、茶の湯に携わった「マルチアーティスト」、 「日本のダ・ヴィンチ」と呼ばれている。 また、俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者として、 光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。
まとめ
良いものに触れ続けることで、 良いものとはなにかという基準をみつけたのだろう。 自らもものづくりを行う半面、光悦村を作った晩年の活動を見ていると、 良いものの基準があるからこそ、絶対音感のある人が、 騒音の中を嫌うように、自分が認めたものしかない光悦村という世界を築き上げるまでになったのだと思う。 よっぽど美しい村だったんだろうなぁ。。。 と、その村への憧れが募りますね。