天才の経歴
1928年0歳: 大阪に生まれる
1945年17歳:大阪大学附属医学専門部に入学
1947年19歳:長編漫画「新宝島」を刊行し、40万部販売
1952年24歳:医師国家試験に合格
1963年35歳:国産初の30分テレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」が放送される
1965年37歳:国産初のカラーテレビアニメシリーズ「ジャングル大帝」が放送される
1968年40歳:株式会社手塚プロダクション設立
1973年45歳:虫プロ商事・虫プロダクションが倒産
1989年60歳:死去
代表作品
1948年20歳:「ロストワールド」発売
1949年21歳:「メトロポリス」発売
1950年22歳:「ジャングル大帝」連載開始
1952年24歳:「鉄腕アトム」連載開始
1953年25歳:「リボンの騎士」連載開始
1954年26歳:「火の鳥」連載開始
1973年45歳:「ブラック・ジャック」連載開始
1974年46歳:「三つ目がとおる」連載開始
天才の幼少期
母親も漫画がすきだったようで、5歳の頃から漫画を描いており、そのうまさからクラスメイトや先生から認められ、いじめられなくなったそうです。また、昆虫採集にも夢中になり、10数歳の頃に自分で昆虫図鑑を作っている。「オサムシ」という虫がいることを知り、ペンネームを「治虫」にするぐらい、まんがだけでなく昆虫採集にも夢中になった。昆虫は実寸大で写実的に描かれていた。医学博士の資格をとるほど勉強もできた。
天才なところ
手塚治虫が漫画のシステムを作ったと言っても過言ではない。処女作である『新宝島』で描かれたコマ割りが、現代の漫画の元となり、日本ではじめての長編ストーリー漫画と言われている。また、少女ストーリー漫画も手塚治虫が初めて書いたと言われている。それ以外にも、日本初の連続TVアニメである『鉄腕アトム』、日本初のカラーTVアニメ『ジャングル大帝』など、漫画だけでなくアニメの基礎も築いた。
手塚治虫が世に残した漫画は約1000作品でその記録はギネスブックにも載っている。また、それだけの作品を生み出すシステムとして、日本で最初に漫画製作にアシスタント精度を導入した。
まとめ
レオナルド・ダ・ヴィンチは絵画を描くために、人体を解剖し、発明や建築などの造形を作り、手塚治虫は、漫画を描くために、昆虫採集し、医学を学んだ。手塚治虫が漫画の道に進んだのは、母親の影響が大きかったのかもしれない。現代では、絵画は富の象徴であり、漫画は庶民の娯楽として定着しているが、時代や国や環境が違えば、手塚治虫の作品も同じ様に歴史に刻まれるのかもしれない。少なくとも海外から見た日本という国のイメージを作った一人の偉大な人物であるということは間違いない。