日本一の天才画家 葛飾北斎

Hokusai

天才の経歴

1760年0歳:江戸に生まれる
1779年19歳:勝川春章に弟子入り 三枚の役者絵を発表し画界にデビュー
1794年34歳:宗理という名で作品を制作 摺物や狂歌絵本で一躍人気
1798年38歳:北斎辰政 錦絵の制作など
1804年44歳:葛飾北斎に改名 主に読本の挿絵
1814年54歳:『北斎漫画』出版
1830年代70歳:『富嶽三十六景』、『諸国瀧廻り』
1834年74歳:絵本『富嶽百景』
1849年90歳:死去

天才の幼少期

6歳の頃から絵に興味を持ち始めた。幼少期、貸本屋で働いており、12歳の頃には貸本の挿絵を見ながら絵の勉強をしていた。14歳の頃、彫刻家の下で働き、木版印刷の技術を習得。19歳の時に勝川春章に弟子入りし本格的に浮世絵師の道を歩むこととなった。

天才なところ

風景や昆虫、おばけや春画など題材を問わず、また挿絵や肉筆画、唐絵や西洋がなどあらゆる画法を学び、生涯に3万点を超える作品を発表。『森羅万象の絵師』と呼ばれる。晩年は、銅版画やガラス絵も試みた。油絵に対しても関心が強かったと言われている。
その画法はゴッホ、セザンヌ、モネなども影響を受けたと言われる。
それまではただの背景でしかなかった景色を、オランダの風景版画に触発され、多様な色彩と独特な構図で、魅力ある風景画として確立させた。

「私は6歳の頃から、ものの姿を絵に写してきた。50歳の頃からは随分たくさんの絵や本を出したが、よく考えてみると、70歳までに描いたものには、ろくな絵はない。73歳になってどうやら、鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかが分かってきた。だから80歳になるとずっと進歩し、90歳になったらいっそう奥まで見極めることができ、100歳になれば思い通りに描けるだろうし、110歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。どうぞ長生きされて、この私の言葉が嘘でないことを確かめて頂きたいものである」
という後書きを残すほど、絵に生涯を捧げ、死の淵にも、

翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい 暫くして更に言いて曰く
天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし と言吃りて死す

「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」

まとめ

生涯3万点もの作品を発表した北斎。wikipediaにでている様々な作品を見るだけでも非常におもしろい。改名と100回以上の引っ越しを繰り返したなどの話や、無作法の逸話などもあるようだが、北斎を語るにはその作品を見るだけで十分である。19世紀後半にジャポニズムの代表としてヨーロッパを魅了し、『LIFE』誌の『この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」の中に唯一の日本人として、掲載されている北斎を語らずして、日本のアートシーンを語ることはできないだろう。

  

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